Tuesday, October 6, 2015

友人の死に、思うこと。

友人が亡くなったのだ。

彼の訃報を聞いてから数日、空を見上げてはもんもんとし、
切ないような寂しいような、悲しいような、なんとも言えない気持ちになっている。

それは、祖母が亡くなった時の悲しみとはまた種類の違う、そういったものだった。

彼とは幼稚園から一緒で、その後の小学校も一緒だった。
幼い頃からクラスの真ん中にいて、学級委員もやって、
女子にも人気。

休み時間には丸めた靴下で野球をしていた。
思い出してみれば、その臭い靴下が私の頭に直撃して
私が腹を立てたなんて記憶も、懐かしく思い出されたりする。

中学校から私は女子校に進学したので、
彼と接する機会は一切なかった。
そして、成人式のあの日、私は再び彼と出会った。

明るい髪をして、ヤンキーみたいになっていたが、
なんだかひとを惹きつける力のある、そんなところは変わっていなかった。

それからしばらくしてまた、彼と出会った。
mixiか何かのメッセージで、
たまたま会う約束をして、一緒にドライブにいった。

当時付き合っている彼女の話、彼の小学校卒業後からの壮絶な人生の話、
昔から抜群に得意だった釣りの話と、大好きなキックボクシングの話。
そんな話を延々とするドライブ。
気がつけば河口湖にいて、釣りをした気もする。

私とは180度違う彼を、私は憧れと、どこか自分のしらない他人事のような
不思議な気持ちで見つめていた。
そこから1年ぐらいの交流が続く。

私がアフリカに行ってからはfacebookでたまに連絡をとる程度になってしまったが。

親友か?と聞かれればそこまで近い存在ではなかっただろう。

だけどそんな私にとっても不思議と存在感のある人だった。
そして彼は私よりはるかに、全力で生きている人だった。


彼の訃報は、突然だった。
そして彼が亡くなって以来、どうしても考えるのだ。

「私は彼が生きたかった1日を今、生きているのだ」と。

正直に言えば。
正直に言えば、私は今の私に全然満足できていない。
仕事も、恋愛も、その他もろもろも。
そして1日の残業がやたら無駄に長いことにも、
それが自分ではない誰かにコントロールされなきゃいけないという
サービス業ならではの
意味不明な事実にも、毎日腹を立ててるのだ。


だけどそれでも、
これは彼が生きたいと願った1日なのだと。
そう思うだけで、頑張らなくちゃと、大切に生きなければと
心のどこかから声が聞こえてくる。

そしてどうせ生きるのなら
不条理なこの世の中でも、
笑って生きろよなと、彼から言われている気がする。

一番楽な死に方は、「死ぬまで生きること」だと
彼は言っていた。

その言葉を今はぐるぐると考えながら
私は私の今日を、笑って生きていければいいなと思う。

ありがとう。ご冥福をお祈りしています。